読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

こどものおいしゃさん日記

何だってこんなことになってしまったのだろう

Wordpressへ移行してみる

 はてなからwordpressへ移行してみます。新しいサイトは以下のとおりです。はてなに書いた内容はインポートしました。ちなみに意外に簡単でした。

childdocblog.com

 

 あんまり記事を書かなくなったので心機一転というのが一番の理由です。それじゃあけっきょく移行先でもあんまり書かないんじゃないかというご指摘はあろうかと思いますし、じっさいその通りなんじゃないかと私自身も思うのですが、まあ配偶者を変えるとか職を変えるとか住所を変えるとか、漫画家が連載先を変えるとか、そういった重大なお話でもなし、気軽に心機一転といきたいと思います。

 他人様に読んでいただく長文をしばらく書かずにいると、ものを考えるときの明瞭さが日を追って劣化したように自覚します。仕事がら日々書くカルテなど、自分が書いたものを読んでも、読者として読めた内容が筆者として書きたかったことと微妙にずれている。畢竟、思考ってのは話すなり書くなりして表現した時点で結実するものなんでしょう。頭の中にぼんやり浮かんでいるうちは自分でもその内容は理解できてないんです。書くなりしゃべるなりして表現して有形化してみないと理解できない。自分自身というのは自分の考えの原作者じゃなくって、第一の読者なんですよね。

 はてなに移行したときは、本業の新生児科医として新生児の救急搬送をするさいに、はてな本社の近所をサイレンならしてよく走ってたんで、しょっちゅううるさくしてご迷惑をかけているのに他を選ぶのも不義理だろうという理由もありました。しかし最近はあの近所とんとお呼びがかからなくなりました。もういいかなって思います。

うまそうに食べるということ

 

  両親の再婚でとつぜん姉妹となった二人の、妹のほうは料理が得意で、姉のほうは妹がつくったものを実にうまそうに食べる。ちなみに上の表紙絵で奥のセーラー服の子が妹、手前のいかにも天真爛漫そうなのが姉。

 この姉の食うところを読んでいると、この二人が互いに全く知らない間柄でとつぜん同居を始め、互いに理解をふかめていく過程において、妹の料理の上手さと同じくらいに、姉の食べっぷりの良さが貢献しているように思える。うまそうに食うというのは人徳なのだなと思う。腹さえ減ってて作り手が上手ければ誰だってできるだろうそんなもんと思っていたが、それは違うようだ。作り手がどれほど上手に料理しても、食べる人間がつまらない食べ方をしたら、その料理は片手落ちのまま、未完成なままなんだ。

 俺はもうおっさんだし、世の中の人間関係には波風があるというのはわかっているつもりだ。だけれどもこの二人の物語はひたすらうまいものを作っては食う話に終始してもらいたいと思う。俺はこの子らがニコニコと料理を作って食べる話を読み続けたい。もうすぐ3巻が出るらしくて楽しみだ。

インフルエンザワクチンを全員に接種するのは無理

個別接種でまかなおうとしてもインフルエンザワクチンを小児全員に接種するのは無理という話をする。

当地、京都市左京区なのだが、小児人口は各年だいたい1200人内外である。インフルエンザワクチンを1歳から12歳までの1200人×12年に年2回、13歳から15歳の1200人×3年に年1回接種するとする。合計32400回の接種が必要になる。

ワクチン外来を効率よく回すとしても、小児科外来での個別接種では1回3時間の外来で50人接種できれば上々である。小児科医1人が午前午後かかって1日で100人接種するとする。1週では500人になる。1ヶ月を4週とすれば2000人だ。

インフルエンザワクチンはシーズンものだ。当地では1月に流行が始まる。11月と12月の2ヶ月で接種を済ませなければならない。8週と考えて小児科医1人で4000人。合計32400回の接種とすれば、2ヶ月まるまるインフルエンザワクチンを接種し続けることに専従する小児科医が京都市左京区には8人必要になる。

これはおそらく左京区の小児科開業医が全員で取り組まなければならない人数である。非現実的な話だ。個別接種で希望者がと言っている限り、当地の小児にインフルエンザワクチンを広く行き渡らせるのは無理なことだ。

 

三顧の礼

当直が立て込んだり残業が続いたりしてだんだん気持ちが疲れてくると、なんとなく投げやりな気持ちが膨らんできて、なんかもういいやこの状況がプチッと終わりにならないかなとか、後先の考えのない破滅願望が浮かんできたりする。

そうやっていまの仕事をリセットして、どこかもっと場末の小さな小児科でひっそり地味な臨床を続けている自分を想像したりする。でもそこはそれ往生際の悪い自分のこととて、そこへもう一度新生児をやらないかと誰かが持ちかけてくるという想像もしてしまうのが浅ましいところである。

たとえば諸葛亮を迎えにきた劉備玄徳みたいなお話が自分にも起きないかみたいな。あるいはもっと凡庸なお話の類型として、なんとなく熱意を失ったロートルの俺がぼんやりと日々を送っているところへ、熱意に溢れた若手がやってきて、彼に担がれほだされてもういちど最前線に、とか。

しかし多くの場合、むろんプチッと自分でスイッチを切るのは可能なんだけれども、そうやってスイッチを切って惰性の航行にはいったところで、現実にはもういちどエンジンをかけてくれるような若い奴が現れるなんてことはまずあり得ない。老いるまで惰性で日銭を稼いで、稼げなくなったら忘れられたままひっそり消えていくんだ。

諸葛亮劉備玄徳が迎えに来なければ埋もれたままで人生を終えたのだろうし(劉備玄徳以外の人物が迎えに来たって埋もれたままの人生とそう変わらなかっただろうし)、彼はそれでも淡々と人生を終えたんだろうと思う。そこで足掻こうとするのは私のような足掻いたところでどうってことない小物なんだろう。

そこで嫌味を言えば、たまにお前ほんとに医者かと聞きたくなるような悲惨な著書を世に問う医者、そういう天下に通じる大道を外れて不遇の身になりながら諦めもできない、かといって誰も三顧の礼をとってくれない、そのまま消えることも再び燃え上がることもできない半端なエネルギーのなせるわざかもしれないなと思う。見苦しい、けれど我が身に通じるような気もして無碍に切り捨てることもしがたい、痛々しい感じ。それなりに認知がゆがんでいて、まだ天下を目指していたころには見向きもしなかったようないんちき臭い嘘に自分で騙されてしまって。

撤退戦

 超低出生体重児の入院数が少ないまま年をこした。新年度からは医師数が減ることになった。今後の自分の仕事は撤退戦の指揮ということなんだろうな。

 総病床数が200にも満たない小さな私立病院が、当地ではまったく手つかずだったNICU医療を手がけて、医療的には多くの赤ちゃんをお世話できたし、商売的にはまったく手つかずの市場に一番乗りで濡れ手に粟の収益があがった。たしかこういう状況をブルーオーシャンと呼ぶのだよね。

 しかしその後、「なんだああやればいいんだ」とばかりに大規模病院がつぎつぎNICUに参入してきた。当地に一個もなかったNICU認可病床が、今では厚生労働省の目標とする出生1000あたり3床を上回るほどまで充足された。となると、どうしても、小児外科も心臓血管外科もいつだって緊急手術できます的な、うちでは病院の総合的な体力としてとうてい追いつけない大施設に、主流を奪われる形となった*1

 「お医者様」水準の世間智しか備えない身で、他の業種の商売にはむろん疎いから根拠のない想像だけでこれから先を語るが、おそらく私らがここまでやってきたことはたぶん「ベンチャービジネス」だったのだろうと思う。であれば、他の大規模施設が台頭してきた時点で部門ごと売却して病院には投資した資本の回収を、俺ら職員は新たな雇用先をというのが、いわゆるベンチャービジネスの王道だったのだろうと思う。我々の業界でそのような部門のリストラが可能なのかどうかはよくわからんが。

 主流ではなくても地域周産期母子医療センターとして、地道な周産期医療を着実に継続するというのが次善の策ではあった。しかし少子化の進行が予想よりも早かった。不妊治療における多胎妊娠の抑制や新生児蘇生法の普及など、産科医療の進歩も手伝って、極低出生体重児も新生児仮死も入院症例ががくっと減った。これは世間的には大変に良いことだ。しかし他人様のトラブルをメシの種にする不浄な職業としては、メシのタネが減るというのは、喜ぶにしても手放しではいけない。何らかの対策が必要となる。

 えげつない言い方で多くの読者諸賢にはご飯が不味くなるかもしれず恐縮ながら、もはやうちの施設にとって新生児医療はブルーオーシャンではない。他分野以上に人件費を喰う(3対1看護ですよ。小児科医24時間専従ですよ。)部門ブルーオーシャンではなくなったときに、それでも今まで通りにNICU医療を看板に押し通していくのが良いことなのかどうか。儲からなくなったらベンチャービジネスなんてやってる場合じゃないのではないか。本業の、小児科一般の地域医療の需要にきちんと応えているかどうか足下をしっかり見なおす時機ではないか*2。小児科地域医療の一部門としての周産期新生児医療はなくてはならない部門だが、そこに傾注するあまり他の分野が手薄になってはいないか。新生児専門医以外の面々が傍流に居るような気分を味わってはいないか。そのあたりを見なおす時機なのだろうと思う。

 その当たりを見なおして、ブルーオーシャンを見限って地道な方針に立ち返った場合、傍目には先代が立ち上げたNICUを寂れさせた凡庸な後継者っていうふうに見えるんだろうとも思う。まあ悪名は覚悟しておかんといかん。

 

*1:私自身はうちのNICUの創生期の数年を、先代部長と2人でつくった若手の医師が他施設に去るときに(それは長年のご希望の最先端施設への転勤だったから栄転である)その替わりとして赴任してきて、そのうちに部長職も引き継いで、絶頂期からだんだん日が陰る様子をここまで見てきた。まあ個人的には、「売り家と唐様で書く三代目」じゃなかろうかとの批判は甘受せざるを得ないとは思っている。

*2:あえて時機と書く。

自施設NICUの終焉を予想する

 今年度から、過去1年間に超低出生体重児の新規患者を4人以上診ていない、あるいは開頭・開胸・開腹いずれかを伴う新生児手術を6例以上やっていないNICUでは、新生児特定集中治療室管理料1を請求できない決まりになった。同2なら請求できるのだが、それでいただける報酬は1の8割である。2割引というのはかなり痛い。事実上、これは上記条件を満たさない施設に柔らかく退場を促す施策である。

 出生数1000にたいしNICUベッド数3という、NICU拡充の量的目標は全国の都道府県において達成できたというのが厚生労働省の認識である。京都でも、京都府下での年間出生数2万に対しNICU認可病床数60、京都市内に限っても年間出生数1万1千〜2千に対し病床数45と、数の上では目標を達成している。

 数はそろったということで、政策的には今後は質の向上を目指す時代だ。事実として、極低出生体重児の生存率には、重症度をそろえて比較してもなお施設間格差が存在する。施設間格差に影響する因子のなかに、極低出生体重児の年間入院数がある。多く入院する施設ほど、死亡率が低い。質の向上のために極低出生体重児の入院を特定の施設に集約するのは、方向性としては正しい。他にもいろいろな因子があるだろうから、集約化ばかりを推し進めることには弊害もあるだろう。とはいえ、とりあえずあまりに極端に年間入院数の少ない施設に退場を願うのは、地域全体の新生児医療の水準向上のためには正しいことだろうと思う。

 その目で見るなら、自分の新生児科医としての実感として、超低出生体重児(極は1500g未満、超は1000g未満)年間4人というのはかなり緩いラインである。超低出生体重児の直近の出産が予想される緊急母体搬送の搬送先として、超体出生体重児を年間4人以下しか診てない施設を候補に挙げるのはかなりためらわれる。むしろ、よく6人とか8人とか10人とか言わなかったなと、厚生労働省の慎重さに感心したくらいである。

 問題は、自分の施設がこの施策によってふるい落とされる側にあるらしいということだ。この施策について話を聞いた時点で、過去の実績から試算してみて、この10年以上、この4人の水準を割り込むことはなかったという結果を得ていた。それで年度当初は鷹揚に構えていたのだが、本年度に入って以降これで5ヶ月間、当施設では超低出生体重児の新規入院が途絶えている。予想外の事態である。

 昨年度末までの入院数を計算すると、このまま年末までに超体出生体重児が1人も入院しないということになれば、新生児特定集中治療室管理料1を請求できなくなる。むろんあと4ヶ月はあり、そのうちには1人くらいは入院もあるだろうと言えば言える。しかし過去の実績をふりかえれば、まるまる3ヶ月以上超低出生体重児の新規入院が途絶えたことはない施設なのだから、過去にはなかった何か新しい状況が生じているらしいとは、現時点でも言えることである。

 このまま入院がなかったら、施設の方向性としてどうするべきなのか、いろいろ思案している。

 

70回目の長崎原爆忌を過ぎて

 長崎の被爆者も年老いて、語り部が少なくなりつつあると聞いた。8月9日の登校日には毎年被爆者の話を聞いていたのにほとんど忘れてしまった、長崎県民の風上にも置けない私としては、それについて何を言う資格もないと言われればそれまでなのだが。しかし「それまでなのだが」とみんなが言って語るのを止めた結果が現状だとも思うので、70年目の原爆忌を過ぎて、個人的な見解というのを書き付けておく。

 長崎で被爆の話を聞いて育ったことで、戦争とか平和について自分たち長崎県民は何か他者に優越する見識をもったかのような錯覚をしていたと、私は自らを省みている。東京や沖縄やその他、国内外のあちこちの土地の人たちに対して、そうは言っても君たちは通常兵器しか知らないだろうという意識をどっかで持っていた。それを他人のせいにするのは卑怯だがあえて言う。長崎の原爆に関してそういう意識を持つような教育を私は受けてきた。

 なぜ長崎の被爆体験を聞いてくれという願いが聞き届けられないのか。自分が欲しいものを手に入れる最善の方法は自分がその欲しいものを他者にくれてやることだと言う。その理屈を応用すればだ、被爆の体験を受け継ぐものであると、長崎に戦後生まれた私たちが自己規定するならば、私たちが行うべき主張は「私たちの話を聞いてくれ」ではなかったはずだ。「私たちに話を聞かせてくれ」であったはずなのだ。「あなた方のところではどうだったのですか?」という問いであったはずなのだ。

 その問いをどれほど私たちがしてきたか。私たちがそれを問うように長崎で育ってきたか。たとえば原爆資料館に他の土地の戦災についてなにか学ぶよすががあったか。たとえばワルシャワレニングラードドレスデンが、あるいは敗戦間際のベルリンが、那覇が、南京が、どういう惨禍をなめたか、私が知ったのは勤め先が夜間小児救急を断念した結果として10年来の睡眠不足から解放され、実に10年ぶりに本を読むようになってからあとのことだった。いやそういう本の向こうにある他所様のお話を持ち出すまでもない。父方の実家については8月9日は原爆投下の日だが、当時満州にいた母の実家にとっては8月9日はソ連参戦の日だ。祖父は80歳過ぎるまで健在だったのに、私は彼の苦難を聞かねばならんという意識すらなかった。

 長崎も広島も叩けば埃が出る都市だ。聞いてまわればいろいろと、自分達自身にとって耳の痛い話が出てきただろう。その耳の痛さに自分たちが耐えないで、どうして米国人があれは終戦のために仕方ないことだったと嘯くことを責められよう。そうして聞いて歩くうちには、あの戦災について異常に執念深く聞いてまわってるあいつらは何なんだという興味ももたれよう。それにしても君らずいぶん熱心だね、なにかわけがあるのかねと相手が言って、それからじゃないかね。いや実はね僕らのところではねと語り始めるのは。

 

 まあとりとめもない個人的見解ながら。