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こどものおいしゃさん日記

何だってこんなことになってしまったのだろう

子供を泣かさないで診療する

北斗神拳の伝承者争いで、師が見守る前でラオウケンシロウが虎と対決するというシーンがあった。虎はケンシロウの前ではおとなしく頭を垂れたが、ラオウには襲いかかった。ラオウは虎を一撃で倒し、虎にすら見くびられるケンシロウではなくて自分に跡目を継がせたらどうだと先代に言った。師の見解としては、虎はラオウの前では死を恐怖したがケンシロウの前では観念した;従ってケンシロウの拳こそ真の暗殺拳だ、とのこと。

小児科の外来をやってると子どもにひどく泣かれることがある。とくに予防接種のときなど、これでもかというくらい泣かれる。逆に不思議に泣かれないで済むこともある。どういう事情の違いなのかよくわからない。なにかラオウケンシロウの違いのような、こちらの態度が相手に伝染するようなところがあるのかもしれないと、ときには考えてしまう。自分の心身の調子がよいこと、外来がそれほどだれず焦らずのほどよい混みかたであること、など、子どもを泣かさないいろいろな条件はありそうな気がする。

その点、予防接種外来は次々に処置していかねばならないという焦りはある。他の医師の予防接種外来と並行して隣のブースで一般外来をやっていると、隣のブースから殺気が溢れてくることがある。医師や看護師や親御さんや子どもの、焦燥やら恐怖やらあれやこれやの感情が入り交じり増幅し合い、うっかりブースに入ろうとしたら無数の拳に反撃されるんじゃないかと思うほどの結界をつくっている。あれじゃ泣くわと思う。一般外来で診ている子までおびえてしまう。

自分がその渦中にあれば為す術もなくやはり泣かせてしまうんだけど、最近ちょっと考えているのは、平然と当たり前のことをするような態度でいたほうが、子どももかえって落ち着くんじゃないかということ。穏やかな声や笑顔と流れるような所作で、しごく当たり前のことが行われているのだという雰囲気を演出すること。

ちなみに、自分自身の記憶として、転んだあと初めて泣かずに立ち上がれたときのことと、予防接種のあと初めて泣かずにいられたときのこととは、いまだに鮮明に記憶している。そのときの幼稚園の情景、園庭で立ち上がったときに膝小僧に付いていた砂とか、集団接種の行われた教室の壁の棚と流し台とか、絵に描けそうな気がする。泣かずにいられるんだ、という、我がことながら予想外の事態の驚き。痛いことをしなければならないのは実際のところ恐縮なのだが、いろいろな疾患への免疫に加え、そういう成功体験もおまけで持って帰ってもらえたらいいなと思う。