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こどものおいしゃさん日記

何だってこんなことになってしまったのだろう

引き継ぐときにはつまらないものですがと言う

 NICU部長を拝命して数年経つ。最初はほんとうに名ばかりの管理職だったが、最近は病院経営のお話にもときどき混ぜていただいている。

 むろん今の自分に経営の才覚や知識があるわけではない。だいたいは末席に謙遜して、院長達が病院改革の話をするのを拝聴しているばかりではある。そればかりであっても意外に充実感がある。彼らの姿は、少しでもよい病院を後進に残そうと奮闘しているように見える。引き継ぐ世代としては嬉しいことである。しぜん、前のめりに聞くことになる。

 こういう充実感はNICUを引き継いだころはあまり感じなかった。当時のNICUはあまり変革志向のない部署だった。施設全体としては現状維持が最善最適ということが暗黙の了解であった。改善の余地があるとすればそれは各人の臨床的資質の向上であるということになっていた。

 そういうふうに組織の改善を属人的要素としっかりリンクされると、改善すなわち前任者の否定ということになる。前NICU部長とか、過去に働いてくれた医師や看護師や、あるいは過去の自分自身まで含めて否定することになる。それがいやで改善を渋り、現状こそ最善と、まだ開設して20年とたたない施設が老舗のふりをしていた。京都では応仁の乱以前に発足していないと老舗とは言えないのに。

 後の世代にも進歩を続けさせるためには、自らを完成形として引き継がせてはいけないのだろう。これでよいと言って渡しては後進の手足を縛ることになる。自ら否定しつつ改善の動きを沿えて渡すことが必要なのだろう。これでは駄目なのだ、駄目なものを背負わせて済まない、せめてこういう改善をしてきた、そう言って低姿勢に引き渡すべきなのだろうと思う。むろん内心ではこの組織の仕事は存続させるべき仕事だと確信していても、それでも、これほど完成したものを引き継げて嬉しかろうと、○○アズナンバーワンと言わんばかりに引き継いでは、その時点で停滞が始まるのだろう。どこかの国の政治経済みたいに。

 これは良いものだと言われて引き継いだものはあまり嬉しくなく、まだ駄目だといって改革に奮闘しているものを引き継ごうとしている方が嬉しいというのは、いささか逆説的ではあるが、釣れた魚かまだの魚かという違いだけとは限らず、多少なりとも普遍的なことではないかと思うので、こうして記しておく。