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こどものおいしゃさん日記

何だってこんなことになってしまったのだろう

そこに僕らは居合わせた

読書

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

  迫害というのは、やりたくない行為を嫌々やらされるうちにだんだん抵抗がなくなるものだと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。普段は良識に阻まれて実行しようとしないこと、実行を考えることさえ下劣な行為とはばかられるようなことが、欲望のままにできるようになることらしい。ユダヤ人の経営する商店で無理矢理につけで買って踏み倒すとか、連行されたユダヤ人一家の住居に上がり込んで略奪したりとか、連行される直前に一家が摂ろうとしていた昼食を子どもたちと揃って食べたりとか。気高さがみじんも感じられない。

 本書を読んで、ユダヤ人を迫害した記憶が語られないのは、民族差別に荷担したことを恥じる等といった形而上的な理由ばかりではなく、こういう、行為自体の具体的な下劣さ自体が、あまりに語るに落ちるからではないかとも思った。迫害とか差別とかを実行するってのは、自分の本性からかけ離れた行為を強制されることではないんだ。心の底ではやりたいと思ってることに対する歯止めが外されて、自分の本性をむき出しにされるってことなんだ。制約を外されていそいそと欲望に従う、そこで露わになる姿こそが本性なんだ。

 お前たちはユダヤ人が逮捕され連行されるのを黙ってみていただろうと糾弾されても、仕方がないじゃないか俺たちだって弱い一般市民だったし何ができたって言うんだと、反論もできよう。その反論には一定の説得力があると私は思う。でもそれなら、俺たちには見ているしかなかったという悔恨の念をもって、記憶を語ることもできるんだろう。しかし、お前達は逮捕されたユダヤ人の家に上がり込んで、食卓のまだ熱いシチューを自分の子供たちに喰わせて機嫌良くなるような奴らだと言われたら、言われた方は恥じ入るしかないし、そういうことをしたという記憶はとうてい語り得ないだろうと思う。救いようがないと私も思う。悪人正機といって法然親鸞が念仏を広めたのはこういう種類の悪を念頭に置いてのことかもしれんとも思う。

 著者の意図するところを汲んだ感想ではないだろうが。