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こどものおいしゃさん日記

何だってこんなことになってしまったのだろう

祖父のこと

新生児医療

 母方の祖父は満鉄の職員だった。とうぜんのように敗戦時には幼かった母も含め家族をつれて苦労して引き揚げてきた。戦後も農業を中心に勤勉に働いて、私が物心ついたときにはすでに故郷でそれなりの暮らしを回復していた。苦労した人だとは母や他の人から人づてに聞いたが、当人は全く苦労話をしなかった。周囲の人の言葉の端々に、祖父への尊敬が感じられた。承認欲求的な面では、ことさらに苦労話をしなくてもよい状況の人ではあった。

 母もまた実家の自慢をしたがる人ではなかったのだが、幼い頃に両親や兄弟と這々の体で帰国したという思いはあるようで、中国在留の日本人孤児帰国のニュースは食い入るように見ていた。そうして母が話すには、引き揚げのときには土地の人が逃げ道を手引きしてくれたとのことだった。祖父が土地の人に辛くあたることがなかったためだろうと母は言った。あの祖父ならそうだろうと私は思った。

 祖父は私が研修医だったころ、癌で亡くなった。病床を見舞ったさいに突然、昔話をし始めた。兵役で衛生兵として中国に渡った話だった。たぶん満鉄職員になる前だろう。下級兵士なので中国のどこに連れて行かれるかは知らされないのだけれど、故郷の人には海の色を見ておけと言われたとのこと。海が濁ってきたら黄河付近で、濁らないままなら揚子江付近だと。どっちかなら命が危険で他方なら安全だと言われていたというがどっちがどっちだったか、祖父は明言したように思うが私が覚えていなくて申し訳ない。でも海が濁らなくてほっとしているうちに云々と聞いた覚えがあって、たぶん上海付近に上陸したんだろうと思う。上海なら北方よりマシだったとすると、上海事変南京事件よりも前だったのだろうか。

 上陸したらさっそく診療にあたる仕事場を設営したのだそうだ。ロール状に巻いてある真っ白な布を、転がしてさーっと広げていったと。当時は何も思わんかったが、今にして思えばあの布も徴発してきたんだろうなあと言った。それなり黙ってしまった。私はそれで暇乞いして当時の研修先だった滋賀に戻ってきた。そのうち、亡くなったという知らせが来た。

 なにかあの先にも話したいことがある様子ではあった。話せないまま抱えてきたいろいろの事情が祖父にもあるのだろうと察せられたし、たぶんそれを聞けたら祖父にとっても幾ばくか救済になったのだろうと思う。でも一度の面会ですべて語り尽くせるものでもなかったのだろう。そう簡単に語れるのなら既に語っていただろう。何回か見舞いに通えればよかったと思う。当時は駆け出し医者の仕事で頭がいっぱいで、加えてしだいに定型発達を外れる兆候を見せていた息子の心配もまたあって、祖父には申し訳ないことに、彼のためにしばらく休暇を延長してみようかとは思いつきすらしなかった。

 年月がたって中国人の超低出生体重児を双胎で受け持つ機会があった。かなり危険な状況であったが乗り切って元気に退院した。祖父が助けてくれたのかもしれないと思ったし、母を含めた祖父一家の引き揚げを援助してくれたかの国の人たちにもなんらか恩返しになったのではないかとも思った。*1

*1:日本の健康保険を最大に利用したんで二人前の医療費おそらく2000万円はかかっているはずで世界に冠たる日本国の保健医療制度にも感謝しごくだし保険料をご負担くださっている読者諸賢をはじめ皆様にも感謝しごくではあるが。